メンタルとうふ子ちゃんの日常

メンタル疾患持ちのとうふ子ちゃんの成長日記

雑記11 結局何がしたかったのか

こんばんは!熱があるにもかかわらず、寝たくなくて困っているしよりです。

今日は、私の昔話なんかを…?

 

私は、私自身の事を大学生くらいまでは優等生だったと思っています。真面目で融通が利かない感じのめんどくさい優等生です。ほんと友達になってくれた人に感謝。

ま、それは置いといて。

 

私は小学生のころ(高学年くらいかな)、役者さんになりたくて仕方ありませんでした。多分、小学校3,4年くらいの頃に見た劇団四季の「夢から覚めた夢」が原因だと思います。夢から覚めた夢でなぜかものすごく心を揺さぶられ、小5の時に市民ミュージカル(小学生に役はつきません)に参加して、その時、まぁなんというか芝居に出ることのおもしろさというか達成感?みたいなのを感じました。そのころから役者になりたいと子供心に思っていました。でも、その時、優等生マンは言います。「役者なんて生活できないよ」って。生活できるのは一握りだよって。あんまり記憶にはないんですが、母に話した時も良い感触は返ってきませんでした(当たり前か)。まぁ、小学校高学年なんて現実が見え出す時期ですよね。それで、私は芝居への何かをもったまま成長します。

 

そして、中学生のころ。

私は地元では一応進学校と言われる私立の中学に通っていました。中高一貫です。んで、別に中学とは全然関係ないんですが、中3?の時に海外にホームステイします。その時、ひたすらあるダンスユニット(っていうのかな)の音楽をリピートしていました。そしたら、ずっと聞いてるうちにいろいろな音がより聞こえてくることに気づきます。そして、ピアノを習っていてやーピアニストにはなれないけど、音楽に関係した仕事に就きたいわー。と思っていた私は、ホームステイから帰って、その音楽を作っている職業なのかを調べました。結果として、PAとかレコーディングエンジニアがいいなぁと思い始めて、両親に相談しました。あ、なぜPAも候補になったかというと芝居の道を諦めきれてなかったからです。お芝居を作るところに私もいたいと思っていたからです。でも、両親からの反応はよくない。つまり、大学に行ってほしいんだな、と優等生マンは気付くわけです。音響に興味があると言ったら高校教諭の父が大学まで探してきてくれました。過保護かよ…。でも、まぁ、私のこの道は応援されないんだろうって思って、その大学行きたいなぁ(実際おもしろそうではあった)なんて言って勉強を頑張ることにしました。で、その頃、中学でいろいろあった(と私は思い込んでる)のと、選択していた科目が生物だったので、音響なら物理やーんとなった私は、高校受験をすることになるのです。はっきり言ってこれが無意味だったよね!!!

 

高校のとき。

高校はもうほとんど黒歴史。言いたくもない。なぜか3年で教室行けなくなって保健室登校。いろいろな救済措置でなんとか卒業。考える余裕のないままセンター利用で合格した大学へ進学。音響関係の研究室はあった。このとき浪人してたら、また違う人生があったのかもしれない。

 

大学のとき。

大学は楽しかった。教養はびっくりするほどレベル低くてほんとここ大学かよって思ったけど、専門はほんとに楽しかった。でも、4年後期で留学してルームメイトと会わなくて帰国後、心療内科へ。そして先生もはずれだった。そのあと、無駄な歳月を過ごす。(今も)

 

 

本当はやりたいことがある。

でも、みんながみんなやりたいことをやっているわけじゃない。

それも分かる。

でも、挑戦もせずに諦めてしまったことへの後悔しかない。

もう年齢も年齢だし、どうしたらいいのかわからないけど、なにか独学でなんとかできることはないかと思ってしまう。

何も考えない優等生マンはこういう時どうしたらいいかわからない。

自分の意思をごまかしてきたツケがとうとう回ってきた。

本当にどうしたらいいんだろう。

したいことは、あったはずなのに…。